示衆(8)「外不取凡聖、內不住根本」(外では凡や聖の区別をせず、內は根本の教えのようなものに落ち着いたりせず)「臨済録」より

2023-03-13

古典 臨済録

 

こんにちは、暖淡堂です。

「示衆」の8回目です。

臨済が自らの説いているところをさらに踏み込んで語ります。

世間の人のしている物事の格付けと、「かの人」の行う格付けとはそもそも違うのだ、と言います。


臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 

「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代


  

道流、山僧說法、說什麼法。

諸君、私の説法は、なんの法を説いているかわかるか。


說心地法。

心をこの世界の基盤とみる心地の法を説いているのだ。


便能入凡入聖、入淨入穢、入真入俗。

心は凡に入り聖に入り、浄土に入り穢土に入り、真に入り俗に入る。


要且不是爾真俗凡聖、能與一切真俗凡聖、安著名字。

君たちの真俗凡聖が、一切の真俗凡聖を、それぞれ格付けしているのではない。


真俗凡聖、與此人安著名字不得。

真俗凡聖は、かの人のものと君たちのものとでは互いに位置づけ合うことはできない。


道流、把得便用、更不著名字、號之為玄旨。

諸君、ここをつかまえてすぐに用いたなら、それぞれの格付けなどにとらわれない、それを根本の原理と言うのだ。


山僧說法、與天下人別。

私の説く法とは、世の人が言うところのものとは違う。


祇如有箇文殊普賢、出來目前、各現一身問法、纔道咨和尚、我早辨了也。

もし文殊と普賢が目の前に現れて仏法について問うたとしても、わずかに「和尚」と話しかけただけで、私はすぐにその心を見透してしまう。


老僧穩坐、更有道流、來相見時、我盡辨了也。

私が静かに座っているところに、修行者が来て面と向かうと、それだけでその内実を理解してしまう。


何以如此。

どうしてこのようになるのか。


祇為我見處別、外不取凡聖、內不住根本、見徹更不疑謬。

ただ私の見方は人と違っていて、外では凡や聖の区別をせず、內は根本の教えのようなものに落ち着いたりせず、さらに疑ったりなどしないからだ。

 

ここで出てくる「かの人」とはどのような人のことでしょうか。

おそらくそれは、修行の果てに到達している人。

仏法の全てを体現しているような人。

あるいは仏法そのものが人となっているような存在のこと。

そのような人であれば、私たちが普段している格付けのようなものからはまったく外れていますね。

臨済はこの部分の最後で、そもそもそんな格付けなどはせず、心のなかも根本の教えとされているものにも安住しない、そうすることで臨機応変に振る舞えるのだ、と言います。

それこそが臨済の独自の立場だと説いています。


*****


「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。

 

臨済録原文全文リンク

 

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