臨済の修行のスタイルは、よく「臨済の喝」と呼ばれます。師や弟子たちとのやり取りで、勘所にくると「喝」と叫び、悟りへの一歩を進めます。
師の黄檗は「黄檗の棒」とされているのと好対照ですね。黄檗は弟子を棒でピシャリと打ちました。
臨済もまた棒で打ったり、平手を喰らわしたり、つかみかかったり。
全身を使って弟子たちを導いていました。
そんな臨済ですが、それではその「喝」と叫ぶような修行は、どのような時代に行われていたのでしょうか。
今回は、臨済の生きた時代、彼が「喝」で修行者を導いていた頃はどんな世の中だったのか、振り返ってみたいと思います。
臨済の生きた時代
臨済は中国の唐の時代の終わり頃に生まれました。生年は不詳ですが、亡くなった年は867年。大体60歳くらいだったと考えられていますので、生年は800年頃でしょうか。
当時の唐は、玄宗皇帝(在位712-756年)の頃に起こった安史の乱のため、国家としてのまとまりを失いつつありました。異民族の侵入を防ぐために置かれた節度使は軍閥化し、独立勢力となって、国の支配から離れつつある状況でした。
臨済が生きたのは安史の乱後の混沌とした時代。皇帝も宮廷内の宦官が自らに都合のよいように選ばれていた頃です。
そんな皇帝が、宦官らの勢力を排除しようとしても、逆に殺されてしまうような状況でした。
また国境周辺では他民族による侵入や略奪なども頻繁に起こっていて、唐という国に対する信頼は失われていました。
そのような乱れた状況でも、あるいはそのような状況であるから、でしょうか、仏教の教えは広く受け入れられていました。
唐代中期にインドからもたらされた真言密教の影響を受けて、真言宗、浄土宗、禅宗などとなり、それぞれに修行者が集まっていました。
臨済は禅の修行に打ち込み、悟りを開いてからは、後進の指導も行いました。やがて中国唐代禅の中心人物となっていきます。
臨済の活躍した場所
臨済は曹州南華県の出身。現在の山東省菏沢市の周辺で生まれました。
その後河北(当時の黄河よりも北の地域)に移り、鎮州城(現在の河北省石家庄(荘)市付近)の近くを流れる滹沱河(こだが)の畔の小院の住職となりました。
臨済という呼び名はそのことに因むものです。
この滹沱河のある辺りを治めていたのが成徳軍節度使。宋の時代になって、真定府と呼ばれる地域です。
臨済の教えは、成徳軍節度使に帰依され、その活動が支援されていたことが「臨済録」の文章から読み取れます。
なお、現在「臨済録」として伝えられているものに序文を寄せているのが、宋の真定府知事であった馬防という人物です。
このことからも、臨済の教えが、当時の地域の支配層に受け入れられていたことがわかります。
禅の教えが、戦乱を生き抜くための導きになるのかもしれません。のち、日本でも鎌倉時代、幕府の有力者北条氏によって帰依され、保護を受けます。
禅の教えと、武士の心との親和性の強さの表れかもしれません。
以下に唐末期の藩鎮分布図を示します。
貝塚茂樹著作集第八巻「中国の歴史」昭和五十一年七月十日発行239ページからの引用になります。
臨済が住持となった寺は上の図の山東半島の付け根からやや北にある「成徳軍節度使」と書かれている領域にありました。
唐代の年表
中国の歴史年表は以下のサイトをご参照ください。
上のサイトの情報をもとに、臨済の生きた時代前後の部分に追記したものを以下に示します。ご参考まで。
唐代の年表
玄宗の時代
712(先天1) 玄宗即位(開元の治)、在位は756(天宝15)まで
725(開元13) 玄宗が泰山で封禅(ほうぜん)の儀式を行う
楊貴妃、玄宗の後宮へ
740(開元28) 楊玉環(ようぎょくかん)(楊貴妃)、玄宗の後宮に入る
751(天宝10) 安禄山、平盧(へいろ)、范陽(はんよう)、河東の節度使を兼任する。タラス川の戦いで安西節度使高仙芝、アッバース朝(マホメットによる回教国、アラビア)に敗れる。
安史の乱
755(天宝14) 安史の乱が勃発。安禄山は奸臣楊国忠の排除を狙う。
756(至徳1) 玄宗、劣勢の中、四川に逃れる。途中の馬嵬(ばかい)で楊国忠、楊貴妃殺害される。玄宗不在中に粛宗即位、在位は762(宝応元年)まで
757(至徳2) 安禄山の後継者を巡って、子の一人である慶緒に殺される
759(乾元2) 史思明が安慶緒を殺して大燕皇帝と称す
761(上元2) 史思明も後継者の選定で揉め、子の一人、朝義に殺される
762(宝応1) 玄宗、粛宗崩御。代宗即位、在位は779(大暦14)まで
763(宝応2) 史朝義が殺されて安史の乱が終わる
節度使が軍閥化、宦官の権勢
764(広徳2) 地頭銭(青苗銭)が行われる
779(大暦14)徳宗即位、在位は805(貞元21)まで
780(建中1) 両税法施行
790(貞元6) 吐蕃が安西・北庭都護府を落とす
793(貞元9) 茶税施行
800~ この頃臨済出生か
804(貞元20) 最澄、空海入唐
805(貞元21) 永貞革新。憲宗が即位、在位は820(元和15)まで。節度使抑圧策をとる
809(元和4) 両税配分上の改革実施
819(元和14) 藩鎮の兵力分割、節度使の権限削減。これを受け、国内の情勢が安定
820(元和15) 憲宗が宦官に殺される。穆宗即位、在位は824(長慶4)まで
821(長慶1) 長安で唐蕃会盟(822年ラサで会盟)
823(長慶3) 牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)が宰相となる。牛李の党争激化
824(長慶4) 敬宗即位、在位は827(宝暦2)まで
827(宝暦2)文宗即位。在位は840(開成5)まで
835(太和9) 宦官誅滅の企てが失敗(甘露の変)
840(開成5) ウイグルがキルギスに滅ぼされて四散する
841(開成6)武宗即位。在位は846(会昌6)まで
845(会昌5) 武宗が仏教を弾圧(会昌の排仏)
847(会昌6)宣宗即位。在位は859(大中13)まで
859(大中13)懿宗即位。在位は873(咸通14)まで。 裘甫(きゅうほ)の乱が起こる(~860)
867 臨済没
黄巣の乱から唐の滅亡まで
874(乾符1) 僖宗即位、在位は888(文徳元年)まで。私塩商人だった王仙芝の挙兵
875(乾符2) 同じく私塩商人だった黄巣が王仙芝に呼応、黄巣の乱が起こる。各地の藩鎮自立化が進み、勢力が強大化する
880(広明1) 黄巣の勢力が、洛陽、長安を占拠。黄巣が帝位につき国号を斉とする
883(中和3) 沙陀族の李克用、黄巣を破り長安を奪回
884(中和4) 黄巣が敗死。黄巣の乱終わる
903(天復3) 朱全忠が長安で宦官を虐殺
905(天祐2) 朱全忠が唐の高官を虐殺
907(天祐4) 朱全忠が後梁を建て、唐が滅びる。周辺部族の李克用らがそれぞれに地方独立王国を建て、中華は五代十国の分裂時代に入る
新品価格 |
新品価格 |
0 件のコメント:
コメントを投稿