こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の11回目です。
臨済のもとで学ぶ僧たちは、さまざまな疑問をいだきます。
今回紹介する箇所では「魔とは、仏とは」について改めて一人の僧が問い、それに答える形で臨在が説明しています。
この「魔」と「仏」は、前回のところから引き続き説かれていますね。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
問、如何是佛魔。
僧が質問した、仏魔とはなんでしょうか、と。
師云、爾一念心疑處是魔。
師は言った、君たちの心に疑うという一念があれば、それが魔である。
爾若達得萬法無生、心如幻化、更無一塵一法、處處清淨是佛。
君たちが、すべての法は生じることなく、心はまぼろしであり、さらに塵ひとつこの世にはなく、どこもここも清浄であると理解したなら、それが仏である。
然佛與魔、是染淨二境。
つまりは仏と魔とは、清浄なものと疑いの汚れに染まったものなのだ。
約山僧見處、無佛無衆生、無古無今、得者便得、不歷時節。
私の見るところによれば、仏も衆生もなく、昔も今もなく、得ているものは初めからすでに得ていたのであって、時を経たことで得たものではない。
無修無證、無得無失。
修行で得られるものもなければ証明されるものもなく、得るものもなければ失うものもない。
一切時中、更無別法。
いかなる時も、他に求められるべき法などないのだ。
設有一法過此者、我說如夢如化。
この一つきりの法を超えるものがあると考えたられとしても、私はそんなものは夢だあやかしだと言うだけだ。
山僧所說皆是。
私の説くところはすべてこれである。
道流、即今目前孤明歷歷地聽者、此人處處不滯、通貫十方、三界自在。
諸君、まさに今この私の前で目を輝かせて説法を聞いている者、そこにいる君たちこそがそこここに滞らず、この世界を通貫して、三界に自在に出入りできるのだ。
入一切境差別、不能回換。
どのような世界に入ったとしても、惑わされるようなことはない。
一剎那間、透入法界、逢佛說佛、逢祖說祖、逢羅漢說羅漢、逢餓鬼說餓鬼。
一瞬の間に法の世界に入り込み、仏に逢えば仏に説き、祖に逢えば祖に説き、羅漢に逢えば羅漢に説き、餓鬼に逢えば餓鬼に説く。
向一切處、游履國土、教化衆生、未曾離一念。
あらゆるところに向かい、国々を遊行して、人々を教化し、それでも一念から離れることはない。
隨處清淨、光透十方、萬法一如。
あらゆるところが清浄であり、光は十方に透り、すべての法は一つになる。
不安になり、ふとなにかを疑ったりする。その心の状況が「魔」でといいます。
すでに必要なものは得ているのです。
それを、あれこれと説明する必要もありません。
おまけに、もう得ているのだから、新たに外からなにかを得てくるということも不要なこと。
それでも、修行する僧たちは時々不安になります。
本当にそうだろうか。
疑うな。疑いをためて心を汚すな。
外に求めるべきものなどないのだ。
そう臨済は繰り返し説きます。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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