こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の10回目です。
臨済の頃の唐では、修行僧が集まる人気の寺があったようです。
そこに仲間入りして、自分は出家したと考える僧がいたのでしょう。
臨済はそのような僧に向かって、それは真の出家ではないと言います。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
今時學者、總不識法、猶如觸鼻羊、逢著物安在口裡。
今時の修行者は、すべて法を知らず、まるでそこらじゅうに鼻先を擦りつける羊のようで、触れたものはなんでも口に入れてしまう。
奴郎不辨、賓主不分。
ただ使われているだけの者と使っている者とが見分けられず、主人と客との区別もつかない。
如是之流、邪心入道、鬧處即入。
このような連中は、邪心でもって修行をしているので、人の集まる賑やかなところがあればすぐに入り込む。
不得名為真出家人、正是真俗家人。
それでは真の出家人とは呼べない、まったくの俗家人だ。
夫出家者、須辨得平常真正見解、辨佛辨魔、辨真辨偽、辨凡辨聖。
出家した者は、すべて平常のままの真正の見解を得て、仏と魔を見分け、真と偽を見分け、凡と聖とを見分けられなければならない。
若如是辨得、名真出家。
このように見分けられるようになって、はじめて真の出家と呼ぶことができるのだ。
若魔佛不辨、正是出一家入一家。
魔と仏を見分けられないのならば、それは一家を出て、別の一家に入るようなもの。
喚作造業衆生、未得名為真出家。
そんな余計なことをしている者たちを、とても真の出家と呼ぶことはできない。
祇如今有一箇佛魔、同體不分、如水乳合、鵝王喫乳。
もし今仏と魔が、同体で分けられず、水と乳のように合わさって現れても、鵝王は乳のみを飲む。
如明眼道流、魔佛俱打。
しかし、しっかりとした眼を持つ修行者であれば、魔も仏も一度にやっつけてしまう。
爾若愛聖憎凡、生死海裡浮沈。
諸君がもし聖を愛し凡を憎んだりするなら、生死の海の中で浮いたり沈んだりすることになるだけだ。
真の出家であれば、魔と仏とをしっかりと見分けられないといけません。
鵝王は水と乳とが混じり合うように魔と仏とが一体になった状態からでも、きちんと魔と仏との区別がつけられたといいます。
それが真の出家の状態。
しかし、臨済はさらに一歩進むことを僧たちに求めます。
魔と仏とが区別できたうえで、それらを一緒に始末してしまうことだ、と。
魔がよくない、仏がよい、凡を憎んで、聖を愛す、などと好悪を示したりするようであれば、結局は修行の完成には至りません。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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