こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の13回目です。
修行僧が「真正の見解とはなにか」と問います。
それに対して臨済は答えます。
「この世のものはことごとく仮の姿だ、実体などないのだ」と。
そして、さらに言葉を続けます。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
問、如何是真正見解。
僧が質問した、真正の見解とはどのようなものですか、と。
師云、爾但一切入凡入聖、入染入淨、入諸佛國土、入彌勒樓閣、入毘盧遮那法界、處處皆現國土、成住壞空。
師は言った、君たちはただ一切の凡に入り聖に入り、不浄に入り浄に入り、諸仏の国土に入り、弥勒の樓閣に入り、毘盧遮那法界にも入り、そこここにそれぞれの国土を実現して、生まれ、暮らし、死んで、空になることを繰り返せばいい。
佛出于世、轉大法輪、卻入涅槃、不見有去來相貌。
祖仏は世に出て、大法輪を転じ、帰って涅槃に入ったが、生まれただの死んだなどという様子などはまったく見せない。
求其生死、了不可得。
そこに生死の区別を探しても、見つかるなんてことはない。
便入無生法界、處處游履國土、入華藏世界、盡見諸法空相、皆無實法。
すなわち生まれるも滅ぶもない世界に入り、その国土をあちらこちらと遊行し、蓮華蔵の世界に入っては、ことごとく仮の姿で、実体などないことをあらわすのだ。
唯有聽法無依道人、是諸佛之母。
ただ、今そこでこの話を聞いている無依の道人、君たちこそが諸仏の母だ。
所以佛從無依生。
それが、仏は無依から生まれるという理由なのだ。
若悟無依、佛亦無得。
もしこの無依というものに達したならば、仏としてあるものなどもないと理解できよう。
若如是見得者、是真正見解。
このように理解し得たならば、それこそが真正の見解である。
無依の道人。
私たちは誰もがなにものにも依存しない、自立独尊の存在です。
私たち自身のなかに、もうすべてがあるのです。
それをしっかりと見極めること。
それが自信ともいわれ、自尊心ともいわれるものでしょう。
そう理解することを、真正の見解を得るというのだ、と臨済は説きます。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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