示衆(18)「如菩薩疑時、生死魔得便」(菩薩にでさえ疑いが生じた時には、生死の魔がつけ込む)「臨済録」より

2023-04-04

古典 臨済録

 

こんにちは、暖淡堂です。

「示衆」の18回目です。

臨済は修行僧たちに、自分自身をもっと信じろと言い続けます。

もし自分に対して疑いが生じたならば、菩薩でさえ生死の魔がつけ込むのだ、と。


臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 

「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代


  

道流、爾若欲得如法、直須是大丈夫兒始得。

諸君、もし君たちが仏法にかなった修行者でありたいなら、なによりもまず堂々たる気概を持った者になれ。


若萎萎隨隨地、則不得也。

すぐに他人のいいなりになるようでは、まったくだめだ。


夫如㽄嗄之器、不堪貯醍醐。

ひびの入った器には、醍醐がたくわえられないのと同じだ。


如大器者、直要不受人惑。

大器のような者であれば、他人からの惑わしなど受け入れる必要はない。


隨處作主、立處皆真。

どこででも主となり、どこにいようとそのまま真実だ。


但有來者、皆不得受。

外から現れてくるものはすべて、なんであろうと受け付けてはならぬ。


爾一念疑、即魔入心。

君たちの心に疑いの一念が起きたら、すぐに魔が心に入るのだ。


如菩薩疑時、生死魔得便。

菩薩にでさえ疑いが生じた時には、生死の魔がつけ込む。


但能息念、更莫外求。

なによりもいらぬ考えを止めて、さらに外に求めるということをするな。


物來則照。

外からものが現れきたら、こちらの光を照らせ。


爾但信現今用底、一箇事也無。

君たちが今そのままで働かせているものを信じられたら、どれもこれも変わらず無事だ。


爾一念心生三界、隨緣被境、分為六塵。

君たちの一念心が三界を生じ、縁に振り回され境の影響を受け、色声香味触法の六塵に分かれるのだ。


爾如今應用處、欠少什麼。

君たちが今ここで用いているものに、なにも欠けたところなどない。


一剎那間、便入淨入穢、入彌勒樓閣、入三眼國土、處處遊履、唯見空名。

一刹那の間に、すなわち浄に入り穢に入り、弥勒の楼閣に入り、三眼国土に入り、そこここに遊行しながらも、それらはただ空名であることを見るのだ。

 

すぐに他人のいいなりになってしまうようではだめだ。

自分自身の主人になれ。

もし自分自身に対して疑いを生じてしまうのであれば、それがたとえ菩薩であったとしても、生死の魔の操るところとなってしまう。

君たちには欠けたところなどなにもないのだ。

自分を信じろ。

何度も繰り返し、そう臨済は言います。


*****


「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。

 

臨済録原文全文リンク

 

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