こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の47回目です。
語り続けた臨済の言葉が、ここで一旦終了します。
さて、どのような言葉で終わるでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
夫如至理之道、非諍論而求激揚、鏗鏘以摧外道。
仏の理にいたる道というのは、論争をして声を高ぶらせることでも、鉦を打ち鳴らして外道を押し除けることでもない。
至於佛祖相承、更無別意。
祖師たちが相伝してきたものも、ことさらな意味があるものでもない。
設有言教、落在化儀三乘五性、人天因果。
教えといえるようなものがあったとしても、それは三乗五性のような教え方の手本になったもの、人天の因果に過ぎない。
如圓頓之教、又且不然。
圓頓の教えなどは、そんなものではない。
童子善財、皆不求過。
善財童子も、それらを極めようとしたのではない。
大德、莫錯用心。
諸君、誤った心の用い方をしてはいけない。
如大海不停死屍。
大海は死屍を停めることはないではないか。
祇麼擔卻、擬天下走。
それなのに君たちはそれをわざわざ担いで、天下を走り回ろうとする。
自起見障、以礙於心。
視界を遮るものを自分で置いて、心に邪魔ものを生じさせている。
日上無雲、麗天普照。
雲のない空に日が上れば、光は天を涯の果てまで照らす。
眼中無翳、空裡無花。
目の中に翳りがなければ、なにもない空間に花など見ることはない。
道流、爾欲得如法、但莫生疑。
諸君、君たちが仏法を得ようと思うのなら、ただただ疑いなど生じさせないことだ。
展則彌綸法界、收則絲髮不立。
広げれば全宇宙の隅々にまで至り、収めれば髪の毛一本も立たないくらいに小さくなる。
歷歷孤明、未曾欠少。
それ自身で明々白々、まったくの完全無欠だ。
眼不見、耳不聞、喚作什麼物。
しかし目にも見えず、耳にも聞こえない、それをなんと呼ぶのか。
古人云、說似一物則不中。
古人も言っている、言葉を持ち出したらすぐに的外れになる、と。
爾但自家看。
君たち、ただ自分たちの目で見よ。
更有什麼。
それ以上の何があろうか。
說亦無盡、各自著力。
説いてもきりがない、自分で力をつけてくれ。
珍重。
珍重。
「君たち、ただ自分たちの目で見よ。それ以上の何があろうか」
あくまでも、今の自分を肯定すること。
祖師たちの言葉や経典に書かれた教えに引きずられないこと。
それ以上の何ものも、必要ない。
「説いてもきりがない、自分で力をつけてくれ」
自分が言えることはそれだけだ。
それを言い換えながら繰り返しただけだ。
あとは自分で進んで行ってくれ。
最後の「珍重」は「ご苦労さん」のように訳されることが多い言葉です。
ここでは「まあ大変だが、頑張ってくれ」のように理解したいと思います。
「示衆」はここまで、次からは「勘辨」になります。
禅の師たちの動きが見えて、ある意味楽しく読むこともできる部分です。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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