こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の4回目です。
ここでは、臨済は心とはなにかを説いています。
心は様々な働き方をしますが、もともとは一つであると。
それから、修行僧たちが求めている修行で得られるもの。
それらはまったくの無駄なもの。
そんなものを求めるよりも、もっと大切なことがある。
臨済は自らの言葉で語り続けます。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
道流、心法無形、通貫十方。
諸君、心の在り方には決まった形はなく、この世のあらゆるものを貫いている。
在眼曰見、在耳曰聞、在鼻嗅香、在口談論、,在手執捉、在足運奔。
目にあれば見、耳にあれば聞き、鼻にあれば香を嗅ぎ、口にあれば談論し、手にあればものをつかみ、足にあれば歩き、走る。
本是一精明、分為六和合。
もともとこれは一つであった心が、六つに分かれて働いているのだ。
一心既無、隨處解脫。
その一心がまったくの無であると理解したなら、どこであろうとその場所でその瞬間に解脱だ。
山僧與麼說、意在什麼處。
私がこのように説くことで、なにを言おうとしているか。
祇為道流一切馳求心不能歇、上他古人閑機境。
それはただ諸君があれこれと探し回る心を止めることができず、かの古人たちが仕掛けたものに捕らわれてしまっているためだ。
道流、取山僧見處、坐斷報化佛頭、十地滿心、猶如客作兒、等妙二覺、擔枷鎖漢、羅漢辟支、猶如廁穢、菩提涅槃、如繫驢橛。
諸君、私のように見てとり、その場で報身仏と化身仏の頭を断ち切るならば、成仏のための十地菩薩位の修行を終えたとしても、まだ年期の明けない奉公人に過ぎず、修行の最後の二段階を終え等覚や妙覚の悟りを得てもまだ、鎖につながれた囚人と同じ、羅漢や辟支(へきじ)とて、厠の汚穢のようなもの、菩提や涅槃も、おろかなロバをつなぐ棒杭だ。
何以如此、祇為道流不達三祇劫空、所以有此障礙。
なぜこのようになってしまっているか、それはただ無限の時間を空であると念じきることができていないから、こんな障害物を乗り越えられないのだ。
若是真正道人、終不如是。
もしこれが本物の修行者であれば、最後までこんなことにはならない。
但能隨緣消舊業、任運著衣裳、要行即行、要坐即坐、無一念心希求佛果。
ただそのまま縁にしたがい古い業を消し、なりゆきのままの衣裳を身につけ、行こうと思えば行き、座ろうと思えば座り、仏道修行の効果を求める心など一切持たない。
緣何如此。
なにがこのようにしているのか。
古人云、若欲作業求佛、佛是生死大兆。
古の人が言っている、もしことさらな修行をしたのちに成仏しようとするのであれば、そんな成仏こそが生死を繰り返す輪廻にとらわれている明白な証拠だ、と。
臨在がここで言う「心」とは、中国の古代からの思想で大切にされている「道」との親和性が見られます。
「道」とは、心の中を空にして清らかにすると、そこにきて安らぎ、あるべき在り方をするものです。
臨済の言葉は、古代からの人々の意識の流れと共鳴するように思われます。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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