こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の6回目です。
今回は、これまで多くの人が関心をもってその意味を理解しようとしている文章の紹介になります。
臨済の四照用と呼ばれている部分です。
照とは、光を当てて相手の内実を照らし出すように見抜くこと。
照察という言葉が近いかもしれません。
用とは、相手に働きかけてそれへの反応の現れを見ること。
作用という使い方が同じ趣旨のものといえそうです。
それぞれについて、臨済はどのように用いると説いているのでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
示衆云、我有時先照後用。有時先用後照。有時照用同時。有時照用不同時。
師は集まった人たちに言った、私は、ある時は先に照、すなわちその内実を読み取ってから、その後に用、すなわち外側に働きかけ、ある時は用を先に、照を後にし、ある時には照と用とを同時に行い、またある時にはこれらを同時には行わないのだ、と。
先照後用有人在。
照を先にし、用を後にする時には、人が現れている。
先用後照有法在。
用を先に、照を後にする時には、法が現れている。
照用同時、駈耕夫之牛、奪飢人之食、敲骨取髄、痛下鍼錐。
照と用が同時とは、耕夫の牛を走り去らせ、飢える人の食を奪い、骨をたたいて髄を抜き取り、鍼(はり)や錐(きり)を突き刺すようなものだ。
照用不同時、有問有答、立賓立主、合水和泥、應機接物。
照と用が同時でないとは、問うことあれば答えることあり、客があれば主人としてもてなし、水がかかれば泥もかぶって、機会に合わせた応じ方をする。
若是過量人、向未擧已前、撩起便行。
もし十分に修行をしたものであれば、問答などが始められる前に、その場を放り出して行ってしまうだろう。
猶較些子。
それでも、まだまだだな。
臨済は、自分の前に修行者が来ると、照と用で対応します。
照を先にして用を後にする場合。
相手の内実を見た後、何か働きかけてその反応を見る。
その時には、その人自体が現れてきます。
先に働きかけてそれに反応させ、それからその人の内実を見る。
その時には、その人の行動の底にある法が示されます。
照と用が同時の時、照と用が同時でない時、それぞれについて臨済は説明します。
修行を十分に進められている者であれば、そんなところからはさっさと去ってしまう。
それでもまだまだだ。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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