こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の12回目です。
修行僧たちがあちらこちらの「偉い」和尚のいるお寺を巡って、お墨付きを得ようとします。
いつまでもうろうろとし続ける修行僧たちに、そんなことは無意味なのだと臨済は説きます。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
道流、大丈夫兒、今日方知本來無事。
諸君、大丈夫の者は、今日この時がまさに本來無事であると知るべし。
祇為爾信不及、念念馳求、捨頭覓頭、自不能歇。
それができないので、ただ自分を信じきれず、外に向かってあれこれと探し回り、自らの頭を捨ててさらに頭を求めるなどという余計なことを止めることができないのだ。
如圓頓菩薩、入法界現身、向淨土中、厭凡忻聖。
圓頓に至った菩薩でも、法の世界に入り身を現し、浄土にありながらも凡を厭い聖を希う。
如此之流、取捨未忘、染淨心在。
このような類いの者は、いまだ取捨の念を忘れられず、浄と不浄の区別が心に残っている。
如禪宗見解、又且不然。
禅宗の見地に立てば、そのようなことにはならない。
直是現今、更無時節。
今のそのままで良いのだ、まさにたった今のその状態だ。
山僧說處、皆是一期藥病相治、總無實法。
私の説くものは、その時々の病に合わせた薬で治すようなもので、実現された法などはない。
若如是見得、是真出家、日消萬兩黃金。
もしこのように見極めることができたなら、それは真の出家者であり、日に万両の黃金を使い切ることができるのだ。
道流、莫取次被諸方老師印破面門、道我解禪解道。
諸君、慌ただしくあちこちの老師を訪ね回ってお墨付きをもらい、自分は禅がわかった、道がわかったなどというのではないぞ。
辯似懸河、皆是造地獄業。
その者達の言葉が大河のように流れていても、そんなのは皆地獄の業づくりだ。
若是真正學道人、不求世間過、切急要求真正見解。
もし真正の修行者であれば、世間でのあやまちなど求めたりせず、まっすぐに正しい見解を求めるものだ。
若達真正見解圓明、方始了畢。
真正の見解に達して月のように明らかに輝いたなら、それで修行は終わりである。
ここでもまた凡と聖の区別をすることをやめさせようとしています。
そんな区別には意味がないどころか、むしろ業づくりだといいます。
どんなに偉い師からお墨付きをもらっても無意味。
それよりも、今、ここ、にいるそのままの自分でよいのだ、すべてがそこにあるのだ、ということに気づくこと。
それがなによりも大切なのだと、臨済は説きます。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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