こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の24回目です。
世の中にいる高僧の中には、長い長い時間をかけた修行の結果が仏だと教えているものがいます。
臨在はそんな言葉には騙されるな、と説きます。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
有一般禿比丘、向學人道、佛是究竟、於三大阿僧祇劫、修行果滿、方始成道。
頭をまるめた坊主たちの中には、修行者に向かって、仏とはこれ究竟、三大阿僧祇劫の長い長い時をかけた修行が果たされた時に、まさに始めて道が成ったのだというものがいる。
道流、爾若道佛是究竟、緣什麼八十年後、向拘尸羅城、雙林樹間、側臥而死去。
諸君、もし仏はそのようにして究竟に達したというのなら、仏はどうして八十年の生涯の後、クシナガラ城で、沙羅双樹の間で、身体を横たえて死んでしまったのか。
佛今何在。
仏は今どこにいる。
明知與我生死不別。
明らかに知るべし、それは我々の生死と異なるところなどないのだ、と。
爾言、三十二相八十種好是佛。
君たちは言う、三十二相や八十種好を持つのが仏だと。
轉輪聖王應是如來。
転輪聖王はまさに如来の再来だと。
明知是幻化。
明らかに知るべし、これもまた幻だ、と。
古人云、如來舉身相、為順世間情。
古の人は言っている、如来の全身の現れ方は、世間からの思われ方に合わせたもの、と。
恐人生斷見、權且立虛名。
人々の間に勝手な思い込みが生じないように、仮に虚名を立てたものだ。
假言三十二、八十也空聲。
三十二相や八十種好もまた空虚なもの。
有身非覺體、無相乃真形。
この世に現れた身体は仏そのものではない、姿形などないものこそ真のあり方なのだ。
長い長い、永遠といえるほどの時間をかけて修行した者が仏であるなら、かつて沙羅双樹の下で、右の脇を下にして横たわって入滅したあの人は誰だったのか。
その人こそ仏だったのではないか。
ならば、その生き死には、我々のものとどこが違うのだ。
古代の人々がいう仏の特徴も、世の人たちの思われ方に合わせただけのもの。
そんなものはすべて空である。
姿形などないものこそが真の姿なのだ。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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