こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の26回目です。
引き続き、修行の先に何かを追い求める修行僧たちに、臨済は語りかけ続けます。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
道流、真佛無形、真法無相。
諸君、真の仏は無形であり、真の法は無相である。
爾祇麼幻化上頭、作模作樣。
それなのに君たちはまぼろしのようなものをわざわざ頭の中に思い描いている。
設求得者、皆是野狐精魅、並不是真佛、是外道見解。
たとえ得られるものがあったとしても、そんなものはみなあやしい野狐精魅であり、真の仏などではなく、すべて外道の見解にすぎない。
夫如真學道人、並不取佛、不取菩薩羅漢、不取三界殊勝。
真の修行僧であれば、すべて仏など認めず、菩薩や羅漢など認めず、この世にありがたいものなどを求めようともしない。
迥然獨脫、不與物拘。
そんなものからは遥かに抜きん出ていて、ものにこだわるなんてことはしない。
乾坤倒覆、我更不疑。
天地が転覆しても、驚いたりするようなこともない。
十方諸佛現前、為一念心喜、三塗地獄頓現、無一念心怖。
十方の諸仏が目の前に現れても、一切喜びもせず、三塗地獄がいきなり現れても、まったく怖れることもない。
緣何如此。
これはなにによるのか。
我見諸法空相、變即有、不變即無。
それはこの世のすべては空であり、状況に応じ変化して有となり、変化せずして無となると見ているからだ。
三界唯心、萬法唯識。
三界とはただ心の現れ、現象もすべて識の現れ。
所以夢幻空花、何勞把捉。
そんな夢幻、空花のようなものを、わざわざとらえようと苦労する必要などないということだ。
唯有道流、目前現今聽法底人、入火不燒、入水不溺、入三塗地獄、如遊園觀、入餓鬼畜生、而不受報。
ただそこにいて、この目の前で法の話を聞いている者は、火に入っても焼けず、水に入っても溺れず、三塗地獄に入っても、遊園しているかのようであり、餓鬼畜生の世界に入っても、その報いを受けることなどない。
緣何如此。
どうしてそのようになると言えるのか。
無嫌底法。
嫌うものがなにもないからだ。
爾若愛聖憎凡、生死海裡沈浮。
君たちがもし聖を愛し凡を憎めば、生死の海を浮き沈みするだけだろう。
煩惱由心故有、無心煩惱何拘。
煩悩は心によって生じるもの、無心であれば煩悩になんのこだわりがあろうか。
不勞分別取相、自然得道須臾。
姿や形などの現れ方を区別することに煩わされなければ、自然に一瞬で道を得ることができる。
爾擬傍家波波地學得、於三祇劫中、終歸生死。
君たちが脇道の方にあたふたとそれていって学びを得ようとするなら、三祇劫という長い長い時間をかけても、ついには生死の迷いの世界に帰るだけだ。
不如無事、向叢林中、床角頭交腳坐。
無事が一番だ、禅の道場で、坐禅を組んで座っていればいい。
今、そこにいる、そのままのあり方でいればいい。
しかし、世にいるありがたい師たちのいうところのものを求めて、あれが良い、あれは悪いなどと差別するような心を持ち続けるなら。
それでは煩悩から逃れられることはない。
差別する心がなければ、煩悩は起こり得ようがない。
無心であることだ。
ことさらなことは何もせず、座禅でもしているのがましだ。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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