こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の31回目です。
臨済は、三界にありながら、何ものにも囚われない在り方について説いています。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
大德、四大色身是無常。
諸君、四大(地、水、火、風)からなるこの身は無常である。
乃至脾胃肝膽、髮毛爪齒、唯見諸法空相。
また脾胃肝胆などの内蔵や、髮毛爪歯など身体の表についているものも、ただ諸法空相であることの現れである。
爾一念心歇得處、喚作菩提樹。
君たちの一念心が静まり得たところ、それを涅槃と呼ぶ。
爾一念心不能歇得處、喚作無明樹。
君たちの一念心が静まり得ないところ、それを迷いの世界と呼ぶのだ。
無明無住處、無明無始終。
無明にはそれが住み着くところも、始まりも終わりもない。
爾若念念心歇不得、便上他無明樹、便入六道四生、披毛戴角。
君たちがもし次々に湧いてくる思いを静めることができなければ、かの迷いの木に上り、六道四生(卵生、胎生、湿生、化生)に入り込み、毛皮を被って頭に角を生やした獣に何度も生まれ変わるだろう。
爾若歇得、便是清淨身界。
もし君たちがそんな心を静めることができたら、それがすなわち清浄身である。
爾一念不生、便是上菩提樹、三界神通變化、意生化身、法喜禪悅、身光自照。
一念が生じないこと、それを悟りといい、三界で神通変化し、意のままに化身し、法を喜び禅を悦び、その身から光が出て自らを照らす。
思衣羅綺千重、思食百味具足、更無橫病。
思いのままに羅綺を千重に身にまとい、百味を口に楽しみ、病に伏せることもない。
菩提無住處、是故無得者。
菩提には宿るところがない、だから得るものもないのだ。
道流、大丈夫漢、更疑箇什麼。
諸君、君たちのような立派な者たちが、さらになにを疑うのか。
目前用處、更是阿誰。
私の面前に現れている者たち、それは一体誰だというのだ。
把得便用、莫著名字、號為玄旨。
つかみ取ったらすぐにそれを用い、それがなんというものかにはとらわれない、それが玄旨、すなわち奥義というものだ。
與麼見得、勿嫌底法。
このように見切ることができたら、もう嫌うところのものなどない。
古人云、心隨萬境轉、轉處實能幽。
古人も言っている、心に随って万境を転変するが、その転変はまったく微かで痕跡も残さない。
隨流認得性、無喜亦無憂。
流れるままのその性を見れば、そこには喜びも憂いもないのだ、と。
この世界にあるものはすべて無常、そして空です。
それを迷いの世界にしているのは、私たちの心に浮かぶ思い。
その思いを鎮めることができたら、それがそのまま涅槃にあることでもあります。
今、そのままで、着るものを思えばすでに綺麗なものを十分に着ている、食べるものを思えば、舌を満足させるものを食べている。
その上、病にふせることもない。
あれが欲しい、こうしたい、あのようになりたい。
そんな思いが、私たちを三界で迷わせているのだ。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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