示衆(30)「癡人、爾要出三界、什麼處去」(痴れものめ、君たちが三界を逃れ出たところで、いったいどこに行けるというのだ)「臨済録」より

2023-05-11

古典 臨済録

 

こんにちは、暖淡堂です。

「示衆」の30回目です。

ここでは三界について語られます。

三界とは欲界、色界、無色界のこと。

人はその三界で迷い、苦しみ、そこから逃れようとしています。

その三界はなぜあると言われるのか。

臨済はどのように説くでしょうか。



臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 

「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代


  

約山僧見處、無如許多般、祇是平常。

私の見るところは、なにもわずらわしいことなどなく、ただ平常であれ、というだけだ。


著衣喫飯、無事過時。

衣を身につけ飯を食い、何事もなく時を過ごす、それだけなのだ。


爾諸方來者、皆是有心求佛求法、求解脫、求出離三界。

君たちのように諸方から来たものは、みな仏を求め法を求め、解脱を求め、三界を逃れ出ることを求める心を持っている。


癡人、爾要出三界、什麼處去。

痴れものめ、君たちが三界を逃れ出たところで、いったいどこに行けるというのだ。


佛祖是賞繫底名句。

仏祖といってもそれはただ褒美に書かれた名前に過ぎない。


爾欲識三界麼。

君たちは三界のことを知りたいか。


不離爾今聽法底心地。

それは今そこで話を聞いている君たちの心地を離れてなどいないのだ。


爾一念心貪是欲界。

君たちの一念心にある貧しさが欲界だ。


爾一念心瞋是色界。

君たちの一念心にある怒りが色界だ。


爾一念心癡是無色界、是爾屋裡家具子。

君たちの一念心にある痴が無色界であり、これらはみな君たちの住処の中にしまっている家具のようなものだ。


三界不自道、我是三界。

三界は自ら、我は三界である、とは言わない。


還是道流、目前靈靈地照燭萬般、酌度世界底人、與三界安名。

かえって諸君、私の目の前ですべてのものをはっきりと照らし出し、世界を吟味している君たちこそが、三界という名を与えているのだ。



 

人が輪廻に囚われ、三界から逃れることができないのは、みな自分たちの心が三界を作り出し、それを大切に心の中にしまってあるから。

祖師の教えや経典の文字を学び、それをありがたいものとして受け取って、それをいつまでも捨てることができない。

そのために大切な何かがわからなくなってしまっている。


何もしなくていいのだ。

ただ衣服を着て、食事をしていればいい。

そう臨済は言います。


*****


「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。

 

臨済録原文全文リンク

 

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