こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の32回目です。
ここでまた、臨済は師と呼ばれる者と修行僧との対話の場面を四通り語ります。
コミカルな場面のようにも読むことができますが、私たちが何かを学ぼうとしている時の姿にも見えてきます。
四通りのものとはどのようなものでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
道流、如禪宗見解、死活循然。
諸君、禅宗の見方とは、死活は循然、その場その場で決まるというものだ。
參學之人、大須子細。
修行しようというものは、このところをしっかりと見極めないといけない。
如主客相見、便有言論往來。
和尚が主として、修行者が客として顔を合わせたとすると、そこで言論のやりとりが起こる。
或應物現形、或全體作用、或把機權喜怒、或現半身、或乘師子、或乘象王。
あるときは取り出された物に応じて形を現し、あるときは全体で対応し、あるときは強く出て喜怒を見せ、あるときは半身であしらい、あるときは獅子に乗った文殊菩薩となり、あるときは白象に乗った普賢菩薩となる。
如有真正學人、便喝先拈出一箇膠盆子。
ここに、真正の修行者が来て一喝し、膠を塗った盆を取り出したとする。
善知識不辨是境、便上他境上、作模作樣。
和尚はそれが企みのある道具だとわからず、その上に乗っかって、あれこれと姿形をなして見せる。
學人便喝。
修行者はそこで一喝する。
前人不肯放。
しかし和尚はその道具を手放そうとはしない。
此是膏肓之病、不堪醫。
これなどはまったく治療しにくい病で、治療法はない。
喚作客看主。
これを客が主を看るという。
或是善知識不拈出物、隨學人問處即奪。
あるいは和尚が物を取り出して見せたりせずに、修行者の差し出すところに応じてすぐにそれを奪ってしまう。
學人被奪、抵死不放。
修行者は奪われ続けても、必死になってそれを放そうとしない。
此是主看客。
これを主が客を看るという。
或有學人、應一箇清淨境、出善知識前。
あるいは修行者が、清浄境に応じて、和尚の前に現れたとする。
善知識辨得是境、把得拋向坑裡。
和尚はそれが境の現れだと見抜き、つかみ取って地面に掘った穴の中に放り込む。
學人言、大好善知識。
修行者は、これは立派な和尚さまだと言う。
即云、咄哉、不識好惡。
和尚はすかさず言う、なんて拙いやつだ、物事の良し悪しも知らぬ、と。
學人便禮拜。
修行者はそこで礼拝する。
此喚作主看主。
これを主が主を看るという。
或有學人、披枷帶鎖、出善知識前。
あるいは修行者が、手枷足枷をつけ鎖を引きずって、和尚の前に現れたとする。
善知識更與安一重枷鎖。
和尚はさらに枷と鎖をひと組み余分に加えてやる。
學人歡喜、彼此不辨。
修行者はそれに歓喜するが、これなどは和尚も修行者もまるでわかってはいないのだ。
呼為客看客。
これを客が客を看るという。
大德、山僧如是所舉、皆是辨魔揀異、知其邪正。
諸君、私がここに挙げて見せたのは、みな魔を区別し異を選び分け、その正邪を知るためのものである。
客が主を看る、主が客を看る、主が主を看る、客が客を看る。
この四通りが語られました。
臨済はそれらに優劣をつけていません。
どれもが、しょっちゅう起こっていることだ、と言っているだけです。
おそらく、こんなやりとりに時間を使っていてはいけない。
ことさらなことなどしなくていいのだ。
そう臨済は言っているようです。
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