示衆(32)「道流、如禪宗見解、死活循然」(諸君、禅宗の見方とは、死活は循然、その場その場で決まるというものだ)「臨済録」より

2023-05-13

古典 臨済録

 

こんにちは、暖淡堂です。

「示衆」の32回目です。

ここでまた、臨済は師と呼ばれる者と修行僧との対話の場面を四通り語ります。

コミカルな場面のようにも読むことができますが、私たちが何かを学ぼうとしている時の姿にも見えてきます。

四通りのものとはどのようなものでしょうか。



臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 

「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代


  

道流、如禪宗見解、死活循然。

諸君、禅宗の見方とは、死活は循然、その場その場で決まるというものだ。


參學之人、大須子細。

修行しようというものは、このところをしっかりと見極めないといけない。


如主客相見、便有言論往來。

和尚が主として、修行者が客として顔を合わせたとすると、そこで言論のやりとりが起こる。


或應物現形、或全體作用、或把機權喜怒、或現半身、或乘師子、或乘象王。

あるときは取り出された物に応じて形を現し、あるときは全体で対応し、あるときは強く出て喜怒を見せ、あるときは半身であしらい、あるときは獅子に乗った文殊菩薩となり、あるときは白象に乗った普賢菩薩となる。


如有真正學人、便喝先拈出一箇膠盆子。

ここに、真正の修行者が来て一喝し、膠を塗った盆を取り出したとする。


善知識不辨是境、便上他境上、作模作樣。

和尚はそれが企みのある道具だとわからず、その上に乗っかって、あれこれと姿形をなして見せる。


學人便喝。

修行者はそこで一喝する。


前人不肯放。

しかし和尚はその道具を手放そうとはしない。


此是膏肓之病、不堪醫。

これなどはまったく治療しにくい病で、治療法はない。


喚作客看主。

これを客が主を看るという。


或是善知識不拈出物、隨學人問處即奪。

あるいは和尚が物を取り出して見せたりせずに、修行者の差し出すところに応じてすぐにそれを奪ってしまう。


學人被奪、抵死不放。

修行者は奪われ続けても、必死になってそれを放そうとしない。


此是主看客。

これを主が客を看るという。


或有學人、應一箇清淨境、出善知識前。

あるいは修行者が、清浄境に応じて、和尚の前に現れたとする。


善知識辨得是境、把得拋向坑裡。

和尚はそれが境の現れだと見抜き、つかみ取って地面に掘った穴の中に放り込む。


學人言、大好善知識。

修行者は、これは立派な和尚さまだと言う。


即云、咄哉、不識好惡。

和尚はすかさず言う、なんて拙いやつだ、物事の良し悪しも知らぬ、と。


學人便禮拜。

修行者はそこで礼拝する。


此喚作主看主。

これを主が主を看るという。


或有學人、披枷帶鎖、出善知識前。

あるいは修行者が、手枷足枷をつけ鎖を引きずって、和尚の前に現れたとする。


善知識更與安一重枷鎖。

和尚はさらに枷と鎖をひと組み余分に加えてやる。


學人歡喜、彼此不辨。

修行者はそれに歓喜するが、これなどは和尚も修行者もまるでわかってはいないのだ。


呼為客看客。

これを客が客を看るという。


大德、山僧如是所舉、皆是辨魔揀異、知其邪正。

諸君、私がここに挙げて見せたのは、みな魔を区別し異を選び分け、その正邪を知るためのものである。



 

客が主を看る、主が客を看る、主が主を看る、客が客を看る。

この四通りが語られました。

臨済はそれらに優劣をつけていません。

どれもが、しょっちゅう起こっていることだ、と言っているだけです。

おそらく、こんなやりとりに時間を使っていてはいけない。

ことさらなことなどしなくていいのだ。

そう臨済は言っているようです。


*****


「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。

 

臨済録原文全文リンク

 

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