こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の34回目です。
ここでは根器(根は感覚器官。眼、耳、鼻、下、身、意の六根)の使い方について説かれています。
臨済は、これらをうまく使いこなすことができるとはどういうことだと説明しているでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
如諸方學人來、山僧此間、作三種根器斷。
諸方の修行者が来たならば、私のところでは、根器(根は感覚器官。眼、耳、鼻、下、身、意の六根)を三種に分けて対処する。
如中下根器來、我便奪其境、而不除其法。
中下の根器の者が来たら、私はその境を奪うが、その法はそのままにする。
或中上根器來、我便境法俱奪。
あるいは中上の根器の者が来たら、私はその境と法とをともに奪う。
如上上根器來、我便境法人俱不奪。
上上の根器の者が来たら、私は境も法も人も奪わない。
如有出格見解人來、山僧此間、便全體作用、不歷根器。
もし格別な見解の者が出て来たら、私のところでは、全身の作用をもって対応し、根器などを用いない。
大德、到這裡、學人著力處不通風、石火電光即過了也。
諸君、ここまで到達したら、修行者が力を奮って立つ場所には風も通らず、電光石火の速さで過ぎ去ってしまう。
學人若眼定動、即沒交涉。
しかし修行者の眼が動いたなら、すぐにその状態からは離れてしまう。
擬心即差、動念即乖。
心を働かせるとずれ、動こうとするとそれてしまう。
有人解者、不離目前。
ここを理解しているものは、この目の前から離れたりしないのだ。
根器を使いこなしている人は、なかなか現れません。
まれに使いこなせている人が現れたら、臨済はむしろ根器にとらわれない働きかけ、全体全身での作用をします。
そこで根器が一瞬でも動いてしまったら、もうどこかへ行ってしまっています。
根器(眼、耳、鼻、下、身、意の六根)を使いこなせたら、環境の変化では動かされることはありません。
その上、心も動かない。
そのような状態のものこそが、今そこにあるではないか。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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