こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の35回目です。
臨済はこの部分で、生き生きとしている私たちの本体について説いています。
そして、無駄な苦労ばかりするな、と繰り返し話しかけています。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
大德、爾檐鉢囊屎檐子、傍家走求佛求法。
諸君、君たちは鉢や屎尿を詰めた袋を担いで、仏を求め法を求めて脇道を走り回っている。
即今與麼馳求底、爾還識渠麼。
今まさにそのように走り回っているが、君たちは探し回っている当の本体がなにか知っているのか。
活撥撥地、祇是勿根株。
それは生き生きと跳ね回っているが、その存在の根拠などないものだ。
擁不聚、撥不散。
集めようとしても集まらず、散らそうとしても散らない。
求著即轉遠、不求還在目前、靈音屬耳。
手に入れようとするときには遥か遠くにあり、手に入れようとしなければすぐ目の前にあり、それが発する霊音は耳に集まってくる。
若人不信、徒勞百年。
もしそのことが信じられないならば、ただいたずらに百年が過ぎてしまうだろう。
道流、一剎那間、便入華藏世界、入毘盧遮那國土、入解脫國土、入神通國土、入清淨國土、入法界、入穢入淨、入凡入聖、入餓鬼畜生、處處討覓尋、皆不見有生有死、唯有空名。
諸君、一剎那の間に、すなわち蓮華蔵の世界に入り、毘盧遮那國土に入り、解脱国土に入り解、神通国土に入り、清浄国土に入り、法界に入り、穢土に入り浄土に入り、凡に入り聖に入り、餓鬼畜生道に入って、それぞれのところで尋ね回っても、どこにも生もなく死もない、ただ空の名があるだけだ。
幻化空花、不勞把捉、得失是非、一時放卻。
幻想の現れや空に浮く花を、つかみ取ろうと苦労などするな、得るもの失うもの、良くも悪くも、そんなものは一気に放り出してしまえ。
修行僧は、修行用の簡単な道具を持って、生身の身体を引きずって、あちらこちらとうろつき回っています。
しかし、うろつき回っている当の本体についてまったく意識していません。
それは生き生きとしているもの。
ただ、その存在は、なにかに依存するというものではない。
それは集めて掴み取ろうとしてもてきず、なにもしなければ目の前に集まってくるもの*。
しかし、それに気づかず、相変わらず幻の花を求めて走り回っている。
それでは何年経っても肝心のところがわからないぞ。
そう臨済は言います。
*これは、老子や「管子ー心術」などでいわれる「道」の在り方にとてもよく似ています。以下の書物もご参照ください。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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