こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の33回目です。
ここでは臨済は「動くもの、動かないもの」について説いています。
これらのどちらにも実体はないと言います。
そのことを用いて、臨済はどのようなことを教えようとするのでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
道流、寔情大難、佛法幽玄、解得可可地。
諸君、まったく大変難しいことだ、仏法は幽玄でもある、一歩ずつ理解を進めることだ。
山僧竟日與他說破、學者總不在意。
私は一日中修行者のために説いてやっているのに、修行者らは誰もそこに意識を留めようとしない。
千遍萬遍、腳底踏過、黑沒焌地、無一箇形段、歷歷孤明。
千遍も万遍も、それを足の下に踏んで過ぎているそれは、目には真っ黒にしか見えず、何の形も持たないが、それ自体ははっきりとした独自の光り方をしているのだ。
學人信不及、便向名句上生解。
修行者はそれが信じきれないので、すぐに名句の上に向かい理解を得ようとする。
年登半百、祇管傍家負死屍行、檐卻檐子天下走。
百年の半分にもなろうとする期間を、ひたすら死骸を背負って脇道に入り込み、その荷物を引きずったまま天下を走り回る。
索草鞋錢有日在。
そんなことでは、草鞋(わらじ)銭を求められる日が来るぞ。
大德、山僧說向外無法、學人不會、便即向裡作解、便即倚壁坐、舌拄上齶、湛然不動、取此為是祖門佛法也。
諸君、私が外に法などないと説明すれば、修行者はそれを取り違えて、すぐに内に向かってなにかを理解しようとし、壁に寄りかかって座り、舌で上顎を支え、深く考え込んで身動きをしなくなり、これらを祖師の開いた仏法だと思いこむ。
大錯。
まったくの誤りだ。
是爾若取不動清淨境為是、爾即認他無明為郎主。
君たちが不動清浄境を正しいものとするのは、それはかの無明を自らの主とするのと同じだ。
古人云、湛湛黑暗深坑、寔可怖畏。
古人が言う、暗黒の満ちた深い穴は、真に怖れるべきものだ、と。
此之是也。
それはまさにこのことだ。
爾若認他動者是、一切草木皆解動、應可是道也。
君たちがもし動くものに真実があるとするのであれば、一切の草木は皆動くことができるが、これを悟りの境地だと言えるだろうか。
所以動者是風大、不動者是地大。
動くものとは風大であり、動かないものとは地大である。
動與不動、俱無自性。
動くものと動かないもの、どちらにも実体はない。
爾若向動處捉他、他向不動處立。
君たちが動いているところに向かってそれを捉えようとしたなら、それは動かないところで立っている。
爾若向不動處捉他、他向動處立。
君たちが動かないところに向かってそれを捉えようとするなら、それは動くところで立っている。
譬如潛泉魚、鼓波而自躍。
たとえるなら泉に潜む魚が、水面を波立たせて躍り上がるようなものだ。
大德、動與不動、是二種境。
諸君、動と不動と、これらは現れ方の違いに過ぎない。
還是無依道人、用動用不動。
かえって無依の道人であれば、動と不動とに対して主人となれるのだ。
相変わらず祖師の言葉、経典の文字に頼り続ける修行僧たちに臨済は言います。
この世にある「動くもの」と「動かないもの」は、いずれも空であり実体はない。
いずれも現れ方の違いにすぎない。
そのどちらを真実であるとは言えないのだ。
例えば泉の中に魚がいるとする。
この魚が水を尾で蹴るようにして水面から跳ね上がった時。
静まっていた泉の水面が、その瞬間に激しく波立ちます。
水飛沫が飛び散り、波紋が広がります。
飛び上がった魚は、一瞬静止する。
それから空中で身を捩る。
また水面を打ち、水の中に戻ります。
この時、泉と魚と、いずれかだけが真実だと言えるでしょうか。
魚がいなければ、泉は波立つことができず、泉がなければ魚は飛び立つことができません。
どちらも現れ方の違いに過ぎないのです。
どちらが正しいか、などということに囚われるな。
そう臨済は言います。
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