こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の38回目です。
「心心不異處(心と心が異ならないところ)」とはどのようなものか。
その問いに答える臨済の説明の、終わりの部分になります。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
今時學人不得、蓋為認名字為解。
今時の修行者が会得できていないのは、思うに名や文字で表されたものをもって解釈をしようとするからだ。
大策子上、抄死老漢語、三重五重複子裹、不教人見、道是玄旨、以為保重。
大きな帳面に、年老いた和尚たちの言葉を書き集め、三重五重に袋の中にしまいこみ、人に見せないで、これが玄旨などと言い、それを大切なもののようにあつかう。
大錯。
大間違いだ。
瞎屢生、爾向枯骨上、覓什麼汁。
愚かで道理のわからない者たちよ、お前たちは乾き切った骨から、どんな汁を求めているのだ。
有一般不識好惡、向教中取意度商量、成於句義。
世の中には良いも悪いもわからない者がいて、経典を念入りに読みその意味を測ろうとし、その挙句に勝手な解釈を作り上げる。
如把屎塊子、向口裡含了、吐過與別人。
自分の捻り出した糞を口に含んで、別の者に向かって吐き出すようなものだ。
猶如俗人打傳口令相似、一生虛過。
まったく田舎の者同士が口を耳にあてて小声でこそこそと囁き合うようなもので、一生が虚しく過ぎてしまう。
也道我出家、被他問著佛法、便即杜口無詞、眼似漆突、口如楄檐。
自分は出家していると言ったとしても、他の者から仏法を問われると、すぐに黙り込み、目はまるで真っ黒な穴、口を開こうともしない。
如此之類、逢彌勒出世、移置他方世界、寄地獄受苦。
こんな連中は、弥勒の出世に出会っても、遠い別世界に移されて、挙句に地獄に住み着いて苦しみをうけることになるぞ。
大德、爾波波地往諸方、覓什麼物、踏爾腳板闊。
諸君、君たちはあちこちと慌ててうろついて、いったいなにを探し求めて、踏んでいる足を平らにしているのか。
無佛可求、無道可成、無法可得。
求めるべき仏もない、成就すべき道もない、得るべき法もないのだ。
外求有相佛、與汝不相似。
外に仏の有相を求めたら、それは君たちとはまったく似たところのないもの。
欲識汝本心、非合亦非離。
君たちの本心を知ろうとしたら、それは合っているとかかけ離れているとかいうこととは別物である。
道流、真佛無形、真道無體、真法無相。
諸君、真の仏は無形であり、真の道は無体であり、真の法は無相である。
三法混融、和合一處。
これらの三法は混ざり合っていて、一つに和合しているのだ。
辨既不得、喚作忙忙業識衆生。
これらのことがわからぬものを、茫茫たる業識の衆生と呼ぶ。
今まさにここで生きている私たち自身をしっかりと認めること。
自分自身の外に何かを求めてうろつきまわること。
そんなことは止めよ。
そんなところには何もない。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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