こんにちは、暖淡堂です。
中国の古代から南宋の終わり、元の前期あたりまでの歴史を簡潔にまとめた歴史書「十八史略」の、原文データ整理(句読点、漢字データの補完など)を進めています。
着手してからもう1年以上経っているのですが、まだ全体の1/3くらい。
これから少しだけスピードアップしていこうと思っていますが、それでもまだ1年くらいはかかるかな、って感じです。
その後、書き下し文を作って、それから現代語訳をする予定で。
全体を終える頃には、65歳を超えているかな。
まあ、慌てずに進めようと思っています。
本日追記したのが、以下の部分。
○以皇后父梁商爲大將軍。商死。以其子冀爲大將軍、不疑爲河南尹。遣使者八人、分行州郡。張綱獨埋其車輪於洛陽都亭曰、豺狼當道。安問狐狸。劾奏冀・不疑無君之心十五事。上知綱言直、而不能用。冀欲中傷之。廣陵賊張嬰、寇亂揚徐閒十餘年。乃以綱爲廣陵太守。綱單車徑詣嬰壘門、請與相見譬曉之。嬰等萬餘人降。綱入壘宴、散遣任所之。南州晏然。在郡卒。嬰等爲之制服行喪。時二千石長吏、有能政者。冀州刺史蘇章、有故人爲淸河太守。章行部。爲設酒甚歡。守喜曰、人皆有一天、我獨有二天。章曰、今日蘇孺文、與故人飮者私恩也。明日冀州刺史案事者公法也。遂擧正其姦贓之罪。○上在位二十年崩。改元者五、曰永建・陽嘉・永和・漢安・建康。太子立。是爲孝沖皇帝。
後漢の孝順皇帝の頃の文章です。
在位は125年から144年。
もともとは太子(帝位を継ぐ子)だったのですが、讒言によって廃され、濟陰王となっていました。
宦官孫程らが、皇后らの立てた北鄕侯懿(孝章皇帝の孫)を廃し、さらに皇后らを離宮に遷して、濟陰王を帝にしたという経緯があります。
その結果、孝順皇帝以後の漢では、宦官の発言力がどんどん大きくなっていきます。
そんな時代の文章です。
ちなみに、後漢の後の三国時代の雄、曹操の父は、力のあった宦官の家の養子とのこと。
この頃は、宦官として宮廷に入り、政治的な力をつけ、養子を迎えて家を栄えさせる、という生き方もあったようで。
時々、曹操を描いた小説などで、「宦官の子」のような蔑む言葉が出てくるのは、このような経緯があるからですね。
普通に考えると、宦官は子をなすことはできませんので。
今回の文章中にあった漢字から一つ紹介します。
「綱單車徑詣嬰壘門」の部分の「徑」。
この文章は「綱(人物の名)單車にて徑に嬰の壘門に詣り」と読みます。
「徑」は「径」の異表記です。
昔はこうも書いた、という感じです。
この字は「小径」だったり「直径」だったり、現代でも使われています。
名詞として使うことが多いですね。
それが、この文章では副詞的に「ただちに」の意味で使われています。
現代語でその用法がないか、と考えてみたところ、ありました。
「直情径行」の中にあるのが、この副詞的な意味の「径・徑」。
「思った通りに言ったり行動したりすること」。
「ただちに」とか「すぐに」のニュアンスですね。
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十八史略 卷三のこれまでの部分は以下のリンクからご覧ください。
漢字ばかりですが。
じわりじわりと進んでいます。


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