こんにちは、暖淡堂です。
「上堂」での講話が続きます。
今回は禅の修行の到達点に触れています。
修行の先にどのような境地に至ればよいのか、到達点はどのようなところか、という議論が修行僧の間で行われていたのでしょう。
あるいは、過去にそのような境地に達した人は誰だったのか、くりかえし話題になっていたのかもしれません。
臨済はそれに対して今回の講話のように話しかけます。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
上堂。云、一人在孤峰頂上、無出身之路。
上堂して言った。一人は高く孤立した峰の頂上のような境地にいて、もはや悟りをひらくために進む道が尽きているとする。
一人在十字街頭、亦無向背。
もう一人は人々とともに日常の中にいるが、世の中の物事とは向き合いも背きもしないで超越している。
那箇在前、那箇在後。
さて、どちらがどちらが先にいて、どちらが後ろにいるのか。
不作維摩詰、不作傅大士。珍重。
維摩詰だ、傅大士だ、などとは言うなよ。ご苦労だった。
究極の境地に到達した人と、世の中の出来事からは超越している人。
どのような状態がより優れたものだといえるのでしょうか。
維摩詰とは釈迦と同時代の人、傅大士は中国の南北朝時代の梁の国の人です。
それぞれ高邁な見識に到達した居士でした。
この二人の、どちらがより優っているのでしょうか。
そんな比較などすることはない、どちらをより目指すべきなどということはないのだ。
そう臨済は説いているようです。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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