こんにちは、暖淡堂です。
今回から「示衆」の部分をゆっくりと紹介します。
ここでは、晚參(夜に行われた説法)での言葉が記録されています。
臨済は、相手の本質やそのときの環境によって、その人との向き合い方を変えています。
よりふさわしい修行の進め方を示すためでしょう。
なお、この部分は古来「臨在の四料揀」と呼ばれています。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
師晚參示衆云、有時奪人不奪境、有時奪境不奪人、有時人境俱奪、有時人境俱不奪。
師は晚參の時、衆に対して言った、ある時は人を奪って境を奪わず、ある時は境を奪って人を奪わず、ある時は人境ともに奪う、ある時は人境ともに奪わず、と。
時、有僧問、如何是奪人不奪境。
時に、僧が質問した、人を奪って境を奪わずとは、どのようなことですか、と。
師云、煦日發生鋪地錦、瓔孩垂髮白如絲。
師は言った、暖かい日差しを浴びて草木は芽を出し地は錦を敷いたようで、嬰児の垂らした髪は真っ白な糸のようになっている、と。
僧云、如何是奪境不奪人。
僧が質問した、境を奪って人を奪わず、とはどのようなことでしょうか、と。
師云、王令已行天下遍、將軍塞外絕煙塵。
師は答えた、王令がすでに天下にあまねく行き渡り、辺境を守る将軍は軍を動かさず土ぼこりを立てることもない、と。
僧云、如何是人境兩俱奪。
僧が質問した、人も境もともに奪うとはどのようなことでしょうか。
師云、并汾絕信、獨處一方。
師は答えた、并州と汾州は通信を絶ち、独自の基盤を持って立っただろう、と。
僧云、如何是人境俱不奪。
僧は質問した、人と境とともに奪わずとはどのようなことでしょうか。
師云、王登寶殿、野老謳歌。
師は答えた、王は寶殿に登り、野老は謳歌している、と。
人とはその人自身、あるいはその人の主観的な見方で把握されているもの。
境とはその人の周囲にあるもの、環境であって、その人の自由にならないもの、客観的なもの。
それを奪う、とは、それぞれを否定するということでしょうか。
人によっては、その主観的なものが悟りへの障害になっていることがあります。
あるいはその人が客観的なものとしているものが誤っていたりするものです。
臨済はそれらを見て取り、それぞれにふさわしい対応をするのだ、と言います。
人を奪って境を奪わない、とは主観を否定して客観を残すということ。
境を奪って人を奪わない、とは客観を否定して主観を残すということ。
人も境も奪うとは、その人の主観も客観も否定してしまうということ。
人も境も奪わないとは、その人の主観も客観も残すということ。
これらがどのようなものであるか、臨済は自身の言葉で語っています。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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