示衆(20)「渠且不是修底物、不是莊嚴得底物」(君たち自身は修行で現れたものではなく、仏の姿が現れたものでもない)「臨済録」より

2023-04-11

古典 臨済録

 

こんにちは、暖淡堂です。

「示衆」の20回目です。

修行する僧たちは、経典や、過去に言われたとされる祖師たちの言葉に囚われ続けます。

そして、それらを理解したならば、修行が成る、と信じています。

しかし臨済は、それらはむしろ業づくりのことなのだと言います。



臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 

「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代


  

爾諸方言道、有修有證。

君たちは言っている、修行がなれば悟るのだと。


莫錯。

そんなことは誤りだ。


設有修得者、皆是生死業。

修行して得られるものなどあるのなら、それこそ生死の業である。


爾言六度萬行齊修。

君たちは六度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知恵)万行をすべて行ったと言う。


我見皆是造業。

私が見るに、そんなものはみな業づくりだ。


求佛求法、即是造地獄業。

仏を求めたり法を求めたりすることも、地獄の業づくり。


求菩薩、亦是造業。

菩薩を求めるのも、また業づくり。


看經看教、亦是造業。

経典を読み教えを学ぶのも、また業づくり。


佛與祖師、是無事人。

仏や祖師は、そんなことさらなことはしない人だったのだ。


所以有漏有為、無漏無為、為清淨業。

だから煩悩でなすことも、煩悩を消してからのことも、結局は清浄を区別するような業である。


有一般瞎禿子、飽喫飯了、便坐禪觀行、把捉念漏、不令放起、厭喧求靜、是外道法。

世の中にはまともにものをみることのできない坊主どもがいて、腹一杯に飯を食い終わってから座禅観行をし、煩悩の念をとらえ、それらの起こることをおさえ、騒がしさを嫌い静けさを求めるが、そんなことはみな外道のやることだ。


祖師云、爾若住心看靜、舉心外照、攝心內澄、凝心入定、如是之流、皆是造作。

祖師も言っている、君たちがもし心をおさえて静かさを喜んだり、心を集中して外に照たり、心を整理して內を澄ませたり、心を凝らして禅定に入ったりする、そんなことはみな余計なことなのだ、と。


是爾如今與麼聽法底人、作麼生擬修他證他莊嚴他。

まさに今そこで話を聞いている君たち、そもそも君たち自身をどのような修行、教義での証明、荘厳されたもの、仏の姿形などについていわれていることから得たらいいというのか。


渠且不是修底物、不是莊嚴得底物。

君たち自身は修行で現れたものではなく、仏の姿が現れたものでもない。


若教他莊嚴、一切物即莊嚴得。

しかし、君たちがそこのところを理解したならば、すぐに一切のものが仏の在り方で現れるであろう。


爾且莫錯。

君たち、そこのところを捉え違えるな。


 

世の中には「立派な師」がいて、修行僧を導いています。

その「師」は、十分に食事をし、立派な建物や着物に恵まれ、その上で静かな環境で座禅をします。

騒がしさ、汚さなどを避け、心の清浄さを求めます。


しかし、そんなことは必要ないのだ。すべて無用なことだ。

今、そこにいる君たちは、そのような修行の結果、この世に現れて生きているのか。

ただ、ありのまま、そこにいるだけではないか。

そして、それが仏の現れ方なのだ。

そこを理解せよ。


そう臨済は言います。


*****


「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。

 

臨済録原文全文リンク

 

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