こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の21回目です。
修行僧たちは、いつまでも世にいる老師たちの言葉や経典に書かれているものを、何よりも大切にしようとしています。
自分たちは、それらの言葉は真実を語っているのだ、それをそのまま受け入れるべきだ。
そう信じています。
凡夫なのだから、そうするのは当然だ、と。
しかし臨済はそんなことはまったく不要だと言います。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
道流、爾取這一般老師口裡語、為是真道、是善知識不思議、我是凡夫心、不敢測度他老宿。
諸君、君たちは世の中の老師たちの言葉を聞いて、それを真実の道だと信じ、善知識としてありがたがり、自分たちは凡夫の心、あえて老師たちの教えの深いところは測るまい、などど言う。
瞎屢生、爾一生祇作這箇見解、辜負這一雙眼。
愚か者、君たちが一生こんな見方を続けるなら、せっかくある目も無駄だ。
冷噤噤地、如凍凌上驢駒相似。
おびえて口も聞けなくなっているのは、まるで薄氷の上にいるロバのようだぞ。
我不敢毀善知識、怕生口業。
私は善知識をそしることなどあえてしないのだ、そんなことをして口のわざわいを生じさせることが怖い、などど思っているのだろう。
道流、夫大善知識、始敢毀佛毀祖、是非天下、排斥三藏教、罵辱諸小兒、向逆順中覓人。
諸君、大善知識であってはじめて仏をこわし祖師をそしり、天下の是非を論じ、経、律、論の三蔵教を排斥し、修行の足らぬ未熟者をののしり、道理に合わぬようなものの中で、それでも人を見つけようとするのだ。
所以我於十二年中、求一箇業性、知芥子許不可得。
この私もずっと長い間、業性を求めてきたが、芥子粒ほどのほんのわずかなものも得ることはなかった。
若似新婦子禪師、便即怕趁出院、不與飯喫、不安不樂。
これがもし嫁に来たばかりの若い女のようにおどおどした禅僧であれば、即座に寺を追い出され、飯も与えられなければ、不安で落ち着かないだろう。
自古先輩、到處人不信、被遞出、始知是貴。
古の先輩たちは、どこへ行っても信用されず、追い出され続けたが、そうなってこそそれが貴いものであることを知ったのだ。
若到處人盡肯、堪作什麼。
もしどこへ行ってもそのまま受け入れられるような人物であれば、むしろ一体なにができるというのか。
所以師子一吼、野干腦裂。
獅子が吠えれば、野干(野狐とも。ジャッカルに似たオオカミの一種)の脳は炸裂するというではないか。
老師たちの言葉の前でビクビクしている様子は、まるで氷の上を歩くロバのようだ。
恐れる必要はないのだ。彼らをさんざん批判してきた自分が、いったいどんな業を得たのか。
そんなものはまったくなかったのだ。
だから安心して、今の自分自身をそのまま認めるのだ。
ビクビクと怯え続けるものたちは集団をなす。
それは野干の群のようなもの。
獅子が一声吠えれば、彼らの脳は砕けてしまうのだ。
君たちは獅子のごとく吠えていいのだ。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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