こんにちは、暖淡堂です。
「勘辨」の12回目です。
臨済を支援していた河南府知事、王常侍が訪ねてきます。
そして臨済と言葉を交わします。
ここの僧たちはお経を学んでいるのでしょうか、坐禅をしているのでしょうか、と。
臨済はどのように答えるでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
王常侍、一日訪師。
王常侍がある日、師を訪ねた。
同師於僧堂前看、乃問、這一堂僧、還看經麼。
そして僧堂の前で師に会うと、問うた、この一堂の僧たちは、経を読んでいるのでしょうか、と。
師云、不看經。
師は言った、経などは読んでいない、と。
侍云、還學禪麼。
王常侍が言った、では禅を学んでいる(坐禅をしている)のでしょうか、と。
師云、不學禪。
師は言った、禅なども学んでいない、と。
侍云、經又不看、禪又不學、畢竟作箇什麼。
王常侍が尋ねた、経も読まず、禅も学ばないということでしたら、いったいなにをしているのですか、と。
師云、總教伊成佛作祖去。
師は答えた、ただ彼らを仏にし祖師にして帰すだけだ、と。
侍云、金屑雖貴、落眼成翳。
王常侍が言った、金の屑は高貴だといっても、眼に入れば翳りとなります。
又作麼生。
いかがです、と。
師云、將為爾是箇俗漢。
師は言った、さて、この男のことをただの俗物だと思っていたのだが、違ったようだ、と。
臨済は王常侍の問いかけに対し、ここでは経も読まないし坐禅もしていないと言います。
そして、ただ仏にし祖師にして帰しているだけだ、と。
それに対して王常侍は、たとえ高貴な金の屑でも、目に入ればただの翳りを生じるゴミにすぎません、と返します。
これはどういう意味でしょうか。
仏や祖師というものは高貴なもの、僧たちが目指すべきものかもしれません。
しかし、それを目の前に置いて、それに達するべくここで過ごしているのであれば、それは僧たちの目にはただの翳りを生じる邪魔ものになるのではないか。
それは、普段の臨済の言葉とは矛盾があるように思われます。
そこを王常侍は言っているように読み取れます。
臨済は一本取られた形になりました。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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