こんにちは、暖淡堂です。
臨済録の最後の部分です。
この文章は臨済が亡くなった後に建てられた塔の銘文として書かれたもののようです。
そこには、臨済が修行を始めてから亡くなるまでのことが短くまとめられています。
これまで「臨済録」全文を通読してきた私たちにとって、全体を振り返るときの手引きとして好適な文章になっています。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
師諱義玄、曹州南華人也。
師は諱(いみな)を義玄といい、曹州南華で生まれた人である。
俗姓邢氏。
俗姓は邢氏。
幼而穎異、長以孝聞。
幼くして他の者たちに秀で、長じては孝行者として人々に知られた。
及落髮受具、居於講肆、精究毘尼、博賾經論。
落髮して具足戒を受け、経論を講釈する寺で戒律を詳しく学び、経論の知識を広めた。
俄而歎曰、此濟世之醫方也、非教外別傳之旨。
ある日、にわかにして歎じて言った、これでは世の人の病に応じた処方を学んでいるだけだ、教外別伝のものではない、と。
即更衣游方、首參黃檗、次謁大愚。
すぐに衣を着替えて行脚に出かけ、まず黃檗のもとに参じ、次に大愚に会った。
其機緣語句、載于行錄。
その機縁や語句は、行録に記載されている。
既受黃檗印可、尋抵河北。
黃檗の印可を受けると、河北に渡った。
鎮州城東南隅、臨滹沱河側、小院住持。
鎮州城の東南隅、滹沱河の側に臨む、小院の住持となった。
其臨濟因地得名。
臨済という名はその地にちなんで得たものである。
時普化先在彼、佯狂混衆、聖凡莫測。
その時にすでに普化がそこにいて、佯狂として僧たちに混じっていたが、聖か凡かを見分けることができなかった。
師至即佐之。
師が至るとすぐに師を補佐した。
師正旺化、普化全身脫去。
師の教化が盛んになりはじめた頃、普化は全身脱去してしまった。
乃符仰山小釋迦之懸記也。
すなわち小釋迦と呼ばれた仰山の予想した通りとなったわけである。
適丁兵革、師即棄去。
その地に戦乱が起こると、師はすぐにそこを立ち去った。
太尉默君和、於城中捨宅為寺、亦以臨濟為額、迎師居焉。
太尉の默君和が、城中の邸宅を喜捨して寺となし、そこに臨済の額を掲げ、師を迎えた。
後拂衣南邁、至河府。
その後、ここを去って南に行き、河府に至った。
府主王常侍、延以師禮。
府主の王常侍が、師に対する礼をもって招いた。
住未幾、即來大名府興化寺、居于東堂。
住み始めていくらも経たないうちに、大名府の興化寺に移り、東堂に居住した。
師無疾、忽一日攝衣據坐、與三聖問答畢、寂然而逝。
師に病は無かったが、ある日法衣を着て居住まいを正し、三聖との問答を終えると、寂然として逝去された。
時唐咸通八年丁亥、孟陬月十日也。
時に唐咸通八年丁亥、孟陬(もうすう:正月)の月十日であった。
門人以師全身、建塔于大名府西北隅。
門人たちは師の遺体を納めた塔を大名府の西北隅に建てた。
敕謚慧照禪師、塔號澄靈。
慧照禅師との諡(おくりな)が贈られ、塔は澄霊と名付けられた。
合掌稽首、記師大略。
合掌稽首し、師の大略を記す。
住鎮州保壽嗣法小師延沼謹書。
鎮州の保寿寺に住む嗣法小師(弟子)延沼が謹しんで書す。
鎮州臨濟慧照禪師語錄終。
鎮州臨済慧照禅師語録終。
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住大名府興化嗣法小師存獎校勘。
大名府の興化寺に住む嗣法小師(弟子)存獎が校勘す。
「臨済録」原文全文とその現代語訳を紹介しました。
仏教や禅に関する書籍ですが、純粋に東洋思想の書物としても読むことができます。
そこに書かれている言葉は、現代に生きる私たちにとって、自信を持ち、より心穏やかに暮らすための導きとなるものばかりです。
「臨済録」が、より多くの人たちに読まれることを祈ります。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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