こんにちは、暖淡堂です。
今回は「上堂」の3回目。
臨済禅のキーワードの一つ、「無位の真人」が出てきます。
「赤肉團上」とは、いままさに生きているこの肉体のこと。
これは心臓であるともいわれています。
臨済はそこに「無位の真人」がいるのだ、と言います。
なんの位置付けもない、立場もない、なにものにもとらわれない真人がいる、と。
聞いている人々はその言葉に惹きつけられます。
「真人」。
それはまさに多くの僧たちが生涯をかけて探し求めているものであると感じられるからです。
しかし、臨在はその「真人」さえ捨て去ってしまえ、と言います。
さて、臨在は「真人」のことをなんと言うのでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
上堂。
またある時、上堂して言った。
云、赤肉團上有一無位真人、常從汝等諸人面門出入。
この肉の塊である身体には無位の真人がいて、常に諸君らの顔の穴から出たり入ったりしている。
未證據者看看。
まだそれを見ていなければ、すぐにそれを見るのだ、さあ、さあ。
時有僧出問、如何是無位真人。
この時、一人の僧が前に出て質問した、無位の真人とは、いったいどういうものでしょうか。
師下禪床、把住云、道道。
師は座から下りて、その僧につかみかって言った、それは何か言ってみろ、さあ、さあ。
其僧擬議。
その僧は答えられなかった。
師托開云、無位真人是什麼乾屎橛。
師は僧を放り出して言った、無位の真人、そんなものはカラカラに乾いた糞の棒だ、と。
便歸方丈。
それからすぐに、居室の方丈に帰った。
「乾屎橛」は、「乾いた糞の棒」という解釈が主流になっています。
臨在は、修行僧たち、あるいは世間の人たちが探し求めているものを、「乾いた糞の棒」だと言い捨てます。
「真人」というものに注目させ、その上でさらにそれを捨てさせようとします。
どんなものにも執着しない心の状態。
臨在はそれを実現するための修行を、僧たちに厳しく求め続けています。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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