こんにちは、暖淡堂です。
「勘辨」の10回目です。
臨済と座主(経典を講義する僧)とが話をしています。
話題は「三乗十二分教(仏教の経典のほとんど)を理解したものと、理解しなかったものと、これらは同じだろうか」というもの。
それを近くで聞いていた侍者の楽普が言葉をはさみます。
どのようなやり取りになったでしょうか。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
有座主來相看次、師問、座主講何經說。
座主(経典を講義する僧)が会いに来た時、師は問うた、座主は何の経を講義しているのですか、と。
主云、某甲荒虛、粗習百法論。
座主が答えた、私はまだまだ至らず、一通り百法論を学んだだけです、と。
師云、有一人、於三乘十二分教明得。有一人、於三乘十二分教明不得。是同是別。
師は言った、一人は三乗十二分教を明らかにし、一人は三乗十二分教を明らかにできていないとする。これらは同じだろうか、別だろうか、と。
主云、明得即同、明不得即別。
座主は言った、明らかにしていれば同じ、明らかにすることができていなければ別、と。
樂普為侍者、在師後立云、座主、這裡是什麼所在、說同說別。
楽普が侍者として、師の後に立っていて言った、座主、今いるところをどのような場所と思って、同じだと言い別だと言うのですか、と。
師回首問侍者、汝又作麼生。
師は首を侍者に向けて回し、では汝はどうなのだ、と問うた。
侍者便喝。
侍者はそこで一喝した。
師送座主回來、遂問侍者、適來是汝喝老僧。
師が座主を見送ってから戻って来て、侍者に問うた、先ほど汝はこの老僧に一喝したのか、と。
侍者云、是。
侍者は答えた、はい、と。
師便打。
師はそこで打った。
楽普の「座主、今いるところをどのような場所と思って、同じだと言い別だと言うのですか」という言葉は、どのような意味でしょうか。
同じ、とか、違う、というのは、区別するときに使う言葉。
そのような区別する心はここでは不要である、と言っているようにも読めます。
そして、その言葉は、誰に対して言われたものでしょうか。
座主を送って来た臨済に、先ほどの一喝は誰に対したものか、と尋ねられます。
楽普は臨済に向けて発したものだと答えます。
それを聞いた臨済は一棒を与えます。
普段から同じだ、別だ、といった区別を無用のものと説いている臨済が、座主にその区別を質問している。
それは矛盾ではないか、と楽普は思い、一喝したのでしょうか。
臨済は、それを言い得た楽普に対し、手が動いたのでしょうか。
そのようなことではなく、無言のやり取りがさらになされていたようなことが、この部分から読み取れるような気がしています。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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