こんにちは、暖淡堂です。
「示衆」の41回目です。
修行僧たちは、相変わらず修行の先に自分たちの思い描く何かが得られると思っています。
そしてそれをなんとかして確かめようと問い続けます。
しかし、臨済は繰り返し、そんなものは無いのだと説きます。
臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。
問、大通智勝佛、十劫坐道場、佛法不現前、不得成佛道。
僧が質問した、大通智勝仏が、十劫の間道場で座禅しても、仏法は現れず、仏道を成就できなかったといわれます。
未審此意如何。
いまだにこの意味がわかりません。
乞師指示。
師よ、どうかお教えください、と。
師云、大通者、是自己於處處、達其萬法無性無相、名為大通。
師は答えた、大通とは、どのような時と場所においても自分自身であり、万法が無性無相のものである状態に達したもの、それを名付けて大通と呼ぶのだ。
智勝者、於一切處不疑、不得一法、名為智勝。
智勝とは、どのようなところでも疑いを生ずることなく、また法ひとつ得ることもない、それを智勝と名づけるのだ。
佛者心清淨、光明透徹法界、得名為佛。
仏とは心が清浄なこと、心の発する光明が法界を照らすこと、それを仏というのだ。
十劫坐道場者、十波羅蜜是。
十劫もの間道場で座禅するとは、十波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜に方便、願、力、智の四つを加えたもの)を修行することと同じ。
佛法不現前者、佛本不生、法本不滅、云何更有現前。
仏法は現れないというのは、仏はそもそも生まれることなく、法は滅ぶこともない、その上でさらに現れるものなどないからだ。
不得成佛道者、佛不應更作佛。
仏道の修行を成就できなかったというのは、仏であるのにさらに仏になろうなどとしなかったからだ。
古人云、佛常在世間、而不染世間法。
昔の人たちも言っている、仏は常に世の中にありながら、世の中の物事に染まることはない、と。
長く辛い修行の結果、仏になったのではない。
今、そこにあるそのままですでに仏であったら、さらに仏になろうとする必要があるだろうか。
世の中で言われていることに左右されるな、しっかりとした自分自身でいるのだ。
それが仏の在り方だ。
そう臨済は言います。
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「臨済録」現代語訳は、全文の推敲を終えたら関連する地図、臨済の生きた時代の年表などと合わせて書籍にする予定です。
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